『少女☆歌劇レヴュースタァライト』との出会い
劇場版再生産総集編「少女歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」
が公開になった。早速(と言う割には公開二日遅れ)観に行ってきたので、当然のことながら感想を書かなければならない(必須)。
映画の内容に触れる前にスタァライトとの出会いを書いていこうと思うが、ラブライブ!フェスの感想を書こうとしたときも出会いのお話だけで1回分になってしまったので今回も映画の内容まで達さない可能性、大。
というこうとを頭に入れておいてもらって、まずは出会いのお話。
2018年7月、テレビアニメ「少女☆歌劇レヴュースタァライト」が始まった。
スタァライトはメディアミックス作品。ミュージカルが先行して上演されていたので、その存在はもちろん知っていた。 ラブライバーとしては三森すずこ、佐藤日向が同じグループにいるということで気になるのは当然。
だが「舞台」というものにそもそもあまり興味のない僕はスルーし続けていた。そんな中迎えた2018年7月。
アニメスタートが決まったものの僕の中で「演劇」をテーマにした作品というのは、『主人公がネチネチしたイジメにあったりして観るのが疲れる』というすごい偏見(笑)、があった。ガラスの仮面の影響だと思う(いや、ガラスの仮面もちゃんと観たことないけど…)。
まあそんな偏見で見ようかどうかは迷うところだったが、ラブライブ!とは別にもうひとつくらいどっぷりハマれる作品に出会いたいと思っていて、舞台少女のキラメキに誘われるように自分からその沼に浸かっていったのであった。
とはいえ!しょーもない内容ならすぐに切るからな! と、半ばケンカ腰でテレビと向かいあった第1話。
メインキャラクターの人となり、聖翔音楽学園という舞台の説明がなされたぬるい日常パートに特に惹きつけられる場所はなく、「あーこんな感じね」という感想。
このままでは1話切りしてしまうぞ、と思っていたら…… 残り5分、凄いことが起きた。
学園地下に突如現れたエヴァとかでないとありえない巨大空間。東京タワー。人語を喋るリアルキリン。当たったら死ぬだろうとツッコミたくなる、おそらく本物の武器での少女たちの戦い。その現実を誰も疑問視しない世界観。
え、なにこれ。なにこれ。思ってた内容と違う!演劇のお話じゃないの?役者を夢見る少女たちが学校で切磋琢磨するお話じゃなかったの?
CONFUSION!
混乱。である。混乱のさなか、ありえない程の高所から平然と飛び降りた主人公にかぶさる、その、文字。
……やられた。何かがガツーン!!ときた。意味なんて分からない。説明なんて全くできない。そして始まる変身シーン(所謂バンクシーンというやつ)。
この瞬間、主人公、愛城華恋の再生産に僕も巻き込まれたのであった。それからの展開は正直あまりどうでも良かった。僕はもうこの世界に入り込んでしまったのだから。この作品は面白いのか?と値踏みする必要はもうなくなってしまった。
そしてそのままエンディングへ。僕の衝撃はまだ終わらない。
1話エンディングテーマは2話以降オープニングテーマとなる「星のダイアローグ」
だった。これまたこの曲の始まりがすごく良かった!
ついさっき「値踏みする必要はもうなくなった」と書いたばかりだが、この素晴らしい曲を予感させるイントロとAメロが逆に値踏みする気持ちを復活させてしまった。
楽曲、特に歌モノで重要なのはもちろんサビだが、本当にいい曲とういうのはすべからくAメロが素晴らしい。
今のようにABサビという曲構成ではなく、AAB(サビ)Aという曲構成が主流だった頃は、Aメロの存在感で曲が成り立っていた。
例えば、魔女の宅急便のオープニング「ルージュの伝言」を今、思い浮かべてみてほしい。浮かんだのは「あのひとのママに会うために」だったでしょう?
これはAメロなんですよ。今は昔と比べAメロの存在感が希薄になってしまったように感じるが、それ分Aメロがいい曲にはグッと心を掴まれる。
星のダイアローグはまさにそうだった。Aメロが凄く良い!だがその分、「裏切るなよ、この良さをBメロやサビで裏切るなよ」とこの曲を値踏みするモードに入ってしまった。逆に「この曲が本当に良ければ僕はこのレヴュースタァライトというアニメに全力を注ぐ!」と勝手に宣言した。
そして星のダイアローグは、少女☆歌劇レヴュースタァライトという作品は、僕の2回目の「値踏みモード」を破壊した。
拍子が変わるBメロ「なにっ!」、拍子がもとに戻って更にテンポのあがるサビ「なにいっ!」、サビの力強い歌詞と最高のメロディー!「なにいいいいっ!!!」
……完敗。即落ちでした。
ここまできたら、最早チョロい存在、僕。まんまとスタァライトされちゃったのである。
これが、僕と「少女☆歌劇レヴュースタァライト」との出会いだった。
胸を刺す、衝撃を、浴びてしまった。
今まで死ぬほどアニメを観てきているが、こういう体験はあまりできない。
だが、こういう体験をさせてくれるからこそアニメはやめられない。シーンが地下に移ってから「これは幾原邦彦っぽいぞ」、と思っていたが調べてみたら古川監督は幾原監督の下で演出とかやっていたらしい。なんか全部腑に落ちた。
幾原監督にも中々ガツーーンとやられてきたからな。
このアニメ「スタァライト」1話の感想をどなたかのブログで読んだことがあるのだが、そこにあったある一文がずっと頭に残っている。
これには大いに同意させられたし、スタァライトという作品を自分なりに楽しむうえで重要なワードになっていった(ありがとう、どこかのブロガー様)。
先程、幾原監督にはガツーーンとやられてきた、と書いた。ガツーーンとやられたのは確かだし、特に輪るピングドラムはそこそこハマった。
でもしかし、その作品世界に浸かりきることはできなかったし、その後の作品でもそうだった。というより幾原作品と僕にはどんどん距離が開いていった。
それは先程の「イデオロギー」の部分が凄く大きい。幾原作品には監督の「言いたいこと」が強く内包されていて、ある種説教臭く感じてしまう。
僕はもういい歳の大人なので、アニメを観ながら説教などされたくないのだ。怒られたくない!(笑)
スタァライトにはそれがない。「ない」と言ってしまったら監督が何も考えていないと取られてしまいそうだが、そうではない。
古川監督は視聴者に押し付けないのだ。だから何も考えずに観られる。何も考えずに観て、結果、色々考えてしまうのだ。
と言うわけで僕は2018年7月、少女☆歌劇レヴュースタァライトに出会ってしまう。
そしてその時浴びた衝撃を第7話にてまた別の角度から浴びることになる。
それについては次、劇場版の感想にて語ろう。